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壬申の乱全行程 壬申の乱おすすめ詳細サイト http://www.asuka-tobira.com/jinshin/jinshintop.htm 「壬申の乱」に登場する人物 天智天皇 大海人皇子 (天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天武天皇) 斉明女帝 大友皇子 (弘文天皇) 伊賀采女宅子娘 伊賀の采女 大友の母 讃良皇女 (持統天皇) 高市皇子 天武天皇の子最年長。しかし,母親が地方の家の出身のため,草壁,大津につぐ第3の地位。母は胸形君徳善の女尼子娘。子に長屋王,鈴鹿王がいる。壬申の乱当時は19歳。 (わざみ)岐阜県関ヶ原町で全軍の指揮をとった 十市皇女 大海人皇子と額田王との間に生まれた十市皇女は高市皇子を想いつつも大友皇子に嫁いだ。壬申の乱では陰で動いた。 大津皇子 天武天皇の第3皇子。母は天智天皇の第1皇女,大田皇女(おおたのひめみこ)。壬申の乱当時は10歳。 村国連男依 村国連男依(むらくにむらじおより)は美濃国各務郡を本拠地とした豪族出身。 大伴連吹負・馬来田 有間皇子 孝徳天皇の皇子。 石川王 ●大伯
JR玉水 レンガノスタルジーの駅 今回の御紹介は京都府綴喜(つづき)郡井手町の中心駅であるJR玉水駅。 前回の朝日町(人口8,347人)の次に訪れた中で人口の少ないのは 岐阜県関ヶ原町(同8,415人。「関ヶ原駅」にて紹介)、神奈川県真鶴町(同8,496人。「真鶴」駅にて紹介) と東海道線に駅を持つ町が続き、そしてこの井手町となります。 2008年7月1日現在の人口は8,786人です。 (1004町村中560位/811町中539位) 京都府南部に位置し、その南にある木津川市は奈良県と接しています。 駅名標周辺のホームの様子です。 JR奈良線に属し、京都と奈良を結ぶ線上の奈良寄りにあります。 京都方面へは城陽まで4駅、宇治まで7駅になります。 反対に奈良方面へは奈良まで5駅です。 ホームの様子です。 跨線橋には屋根がなく、小学校の前にあるような歩道橋とおんなじです。 ホームの構造の関係なのか階段の降りる位置が両側で逆向きになっていました。 しかし階段に踊り場をつけるという事を発想した人はえ
伊吹山 <登山日>2008/5/1(木) <天 候>くもり時々晴れ <行 程>伊吹登山口[約220m]〜三合目(70分)〜五合目(20分)〜七合目(30分)〜九合目(30分)〜伊吹山山頂[1377m](5分)〜三合目(60分)高原駅―伊吹山ゴンドラ―山麓駅 <歩行高低差>約1157m <歩行時間>3時間35分(山頂まで2時間35分) 伊吹山は、岐阜県と滋賀県の県境にあり、琵琶湖国定公園の一部になっています。山頂でも案内されていましたが、琵琶湖国定公園はわが国最初の国定公園だそうです。 全山が石灰石であることや冬季寒冷であることなどが影響し、植物相が豊かで、この山名を冠した山野草(33種類)も多く見られます。また昔から薬草の宝庫としても知られています。 この辺りは豪雪地帯で、1927年(昭和2年)2月14日に観測された11.82mの積雪は世界山岳気象観測史上1位とされる積雪の世界記録保持山なのです。 山麓にはピステジャポン伊吹スキー場があります。 岐阜県関ヶ原町から山頂近くまで伊吹山ドライブウェイが通り、伊吹山への登頂を容易にしています。 西日本百名山キャラバン 走行距離2300キ
福島正則陣跡 ■福島正則陣跡 所在:岐阜県関ヶ原町松尾春日神社(地図) Pあり 福島正則は豊臣秀吉の腹臣の一人で、関ヶ原時もいわゆる豊臣恩顧の武将ですね。ところが、理詰めで石頭(失礼)の石田三成とそりが合わず、かねてより目の敵にしていました。そんなだから、正則は、豊臣秀吉に大恩ある身ではありながら、関ヶ原合戦では徳川軍について先鋒を任されていました。 しかし、一番槍は井伊直政&松平忠吉の抜け駆け(のようなもの)により、逃してしまいます。関ヶ原合戦直前の岐阜城攻めでは池田輝政と激しく先陣を争い、輝政に先陣を持っていかれた正則としては、悔しい気持ちは大いにあったと思われますが、それはそれ。 戦闘が始まると猛将ぶりを見せ、数にしたら倍以上ある宇喜多秀家隊や、真正面の小西行長隊などを相手に奮戦。戦功も目覚しかったとされています。 写真で見られるとおり、陣跡は春日神社です。後ろの木は関ヶ原合戦の時にも存在していたと考えられるご神木。「この木は関ヶ原合戦を福島正則陣から見ていた」ということを思うと、サイコメトリーできればなあ…と思いますな(笑)。 松尾山からは結構遠いで
グリコ「ビスコ」 復刻デザイン 以前記事にしましたが、しーちゃんは「ビスコ」に異常に反応します。 LOVEなのでしょう〜。 昨日、スーパーで復刻版を見つけました。中村静博士 創設‥‥?。静さんだけに、しーちゃんも好きなのか??そんなわけはないでしょう。 『このパッケージは、1978年(昭和53年)当時のパッケージデザインをもとにデザインしました。製品は現在販売しているビスコです。長い歴史とともに磨きぬかれた美味しさをご賞味ください。』 ‥‥とのこと。 昭和53年はどんな年だったか調べてみました〜。 できごと 1月7日 - テレビ朝日、人気時代劇「暴れん坊将軍」(主演:松平健)放送開始。 1月19日 - TBSテレビ、人気音楽番組「ザ・ベストテン」(司会:黒柳徹子、久米宏)放送開始。 3月1日 - 日本一の高層ビル(当時)サンシャイン60完成。 3月16日 - 札幌市営地下鉄南北線延長部(麻生駅〜北24条駅間)開業。 3月26日 - 社会民主連合結成。 3月26日 - 第四インターを中心とする新左翼によって成田空港の管制塔が占拠・破壊される。3月31日に予定されていた開港は5
薩長連合より難しい農商工連携 昨日は早朝から高知県商工会連合会の石丸氏と川崎氏がお見えになり「商工業者のアグリセミナー」の打ち合わせでした。私は今まで高知県だけが行ってことがなく54歳にしてついに全ての都道府県に行くことになります。アグリセミナーの募集しても応募がない場合はキャンセルになることもありうると言うことでした。言い換えると主催者の高知県商工会連合会でもアグリセミナーは初めてで応募人数予測ができないのと既成の農業関連団体の妨害とまで言わなくても冷たい態度が気になるようです。「薩長連合」を成立させたのは土佐の郷士坂本竜馬ではありませんか。土佐っぽが「農商工連携」反対なんてそんなケツの穴の小さいことは言う訳がありません。 お昼は相変わらず惣菜調査を続けており今週もずっとお昼は惣菜の試食でした。守岡の説明で野口と私は黙々と惣菜を食べています。実施者の守岡は試食していてもメモしたり写真を撮ったりでお昼を食べた気がしないそうです。いずれの誰かがもう惣菜は勘弁してくれとギブアップするまで調査を続けます。(写真) 午後は島根県のホテルレストラン用ソースメーカーの(株)シャトランの石田氏と平島氏がやって来ました。上野村の「
逢坂関(おうさかのせき) 逢坂関は相坂関、合坂関とも書く。山城・近江国境の峠道。かつては畿内の北限とされ、関が設けられた。ここを越えれば東国であった。古歌にもさかんに歌枕として詠まれた。百人一首第10番の蝉丸の歌が有名である。 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関(「後撰集」) (通釈)これがまあ、あの都から東国へ行く人も、東国から都へ帰る人も、ここで別れては、また、知っている人も知らぬ人も、ここで逢うという、その名も逢坂の関なのだなあ。 孝徳天皇の大化2年(646年)、鈴鹿関(三重県関町)、不破関(岐阜県関ヶ原町)、愛発関(福井県敦賀市)の三関が設置され、国家の守りに備えたが、やがて愛発関に代わって、この近江の逢坂関(滋賀県大津市大谷町)が王城鎮護の関となった。逢坂関の設置年は明らかではないが、延暦年間に三関は一旦廃止されたが、「文徳天皇の天安元年(857年)に初めて逢坂関を建つ」(「文徳実録」)とみえることから、再び設置されたようである。清少納言(966?-1025?)の「枕草子」にも「関はあふさかのせき」と記しているし、百人一首にも「夜をこめて鳥の空音ははか
松尾山小早川秀秋陣跡 ■松尾山小早川秀秋陣跡 所在:岐阜県関ヶ原町関ケ原(地図) 小早川秀秋の陣取った松尾山には、合戦直前の9月14日、大垣城主の伊藤盛正が陣を張っていて、升形虎口や土塁、堀切を設けた砦となっていたそうです。関ヶ原は歴史上、何度か重要地点として舞台になっているだけに、もっと早い時代にこの松尾山も何らかの形で拠点としての整備が行われていたみたいですね。 秀秋は推定1千人ほどで、この松尾山に陣していた盛正を強引にどかすと、ここに陣取ります。合戦当日は午後になるまで動かなかったことはよく知られるとおりです。 クネクネと曲がりくねった山道を行くこと30〜40分で頂上に到着します。頂上には写真の石碑と看板、休憩スペースなどがあります。(休憩所といっても、ベンチがあるくらいで自販機などはないので、飲み物は必ず持参すべし!) ちなみに石碑の写真の右手から右の写真のように、関ヶ原一帯を見渡すことができるようになっています。山の高さはたいして変わっていないはずですので、実際に小早川秀秋が合戦時に見ていた眺めと近しいのではないでしょうか。 家康公が秀秋を脅かすため
関ヶ原の新たなる戦い(1)−まずは決戦の地へ 天下分け目の関ヶ原。 岐阜県関ヶ原町といえば、1600(慶長5)年9月15日に「関ヶ原の戦い」の舞台となった場所。東軍の徳川家康と西軍の石田三成が戦い、その後の歴史を決定づけたものです。さらにはこの戦いでは、全国の大名がそれぞれの軍に二分したことから「天下分け目の戦い」と呼ばれています。 合戦から408年。こんな有名な史跡を抱える関ヶ原に、新たなる敵が現れたとのこと。今、関ヶ原でどんな戦いが起きているのか、史跡を巡りながら2回に渡って見ていきます。
第8回 壬申の乱と天皇の誕生 ○大友皇子VS大海人皇子 さあ、672年。叔父VS甥の熾烈なバトルがスタート! 壬申の乱(じんしんのらん)、というやつです。皇位継承権を持つ皇族が鎧兜つけて殺し合いをするというのは、大きな争いではこれが最後。 さて、まずは大海人皇子は当初、奈良県南部の吉野に隠居していましたが、密かに美濃(岐阜県)へ脱出します。いったん、朝廷の直接的な支配下から離れたわけですね。ここで、これまでの政治に不満があったり、没落した豪族などを味方につけ、不破関(岐阜県関ヶ原町)、鈴鹿関(三重県鈴鹿市)などの交通の要所を押さえます。また、長男である高市皇子、それから大津皇子などの息子も駆けつけました。 これに対し、大友皇子(弘文天皇)は右大臣の中臣金(なかとみのかね)、左大臣の蘇我赤兄を中心に対策を協議し、有力な豪族達に軍を組織させます・・・が、こうした努力もむなしく、約1ヶ月の戦いの末に大海人皇子の軍勢が勝利し、大友皇子は自殺。25歳の短い生涯を終えました。また、中臣金ら8人は死罪に、蘇我赤兄らを流罪に処されました。これ以後、中臣氏、蘇我氏の多くは没落していったようです。 そ
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